0%禁パチ我慢

禁パチを団体戦だと思わないほうがいい。

誰かと一緒に禁パチをしていると錯覚できるのは、例えばこうしてブログやSNSや掲示板といったコミュニケーションができる場所があるからに他ならない。

だけど、最後の決断はいつも自分でするという事には変わりないはず。

「行く」のか「行かない」のか。

だからいつだって禁パチは究極の個人戦だ。
そして、個人戦ってのが思っている以上に「辛い」んだ。




失敗すれば、

自己嫌悪という負のループになる。
最後には自分を責めるしかなくなる。

そりゃそうだ。

お前の脳みそが「行く」と判断したんだから。
自分で自分を制御できなかった事に心底絶望する。

こんなループの内側でもがいている最中はとんでもなく辛い。
誰にも文句も言えない不甲斐なさ。


なぜ自分だけ。。。


八つ当たりしたくなる。

他人の不幸がほしくなる。

うまくいっている人を見ると壊したくなる。



そう、

そうやって人格すら奪われる。

ジワリジワリと「幸せ」という2文字から離れていく。


パチンコという奴は、
一気にとどめを刺してくれない。
あくまでもジワリジワリ。

だから、
気付いたら手遅れ。



パチンコという奴は、
一瞬で忘れる方法はない。
あくまでジワリジワリ。

だから、
逃げ出すのにも、
まるで蟻地獄のように相当な苦労をする。



もう、行ってしまえばこうなる事は覚悟した方がいい。

人によって蟻地獄の大きさこそ違えど、
通る道に近道はない。

自力。

だからこそ辛い。



いいですか、

「簡単にパチンコやめれました」

こんなセリフは結果論だと思ってほしい。


辞めた後なら何言ったっていい。
そんな世の中なんだから騙されるなよ。

だってさ、




俺も何年後かにさ、

「パチンコなんて簡単にやめれるぜー」

「禁パチらくしょー」

とか言っちゃうかもしれない。

結果論だからね。

今の辛さなんて何年後まで覚えていないだろうし。




つまりさ、

苦労している今の気持ちだって日が経てば薄れるんだよね。

だからいつも言うのは
「禁パチしよう」
と決断した時の気持ちを紙に書いてでも忘れるなよって事。


もしもさ、

自分が小学生だった頃の日記が出てきたとしよう。

「体育の授業が嫌いです。僕は足が遅いから。」

そんな風に書いてあったとする。


これを書いた時の自分は本気で体育の時間が「苦痛」だったに違いない。
もしかしたら体育のある日にズル休みをしたかもしれない。

それほど嫌だったはず。

でも、

今それを聞いても「いい思い出」という気しかしない。

そう、

そうなんだよ。

その時の気持ちなんて、どれだけ辛くても薄れるし、忘れるんだよ。

いや、

だから人間なんて笑って生きてられるんだけどさ。

だからこそ、

忘れたくないその禁パチに挑もうと思った気持ちを忘れちゃいけないんだよ。

わかるよね?

パチンコばかりで、
考えるという事から逃げ続けた、
萎縮したその中毒丸出しの脳みそでもわかるよね?

・・・

スッパリ、キッパリやめた?

ははは

やっぱり結果論だわ。

どれほど辛いか。

一人での戦いの辛さ。

もうさ、

こうなったらさ、

「辛すぎて笑える~」
とか言えるぐらいでいいかもね。

まぁ、

自分だけが辛い思いをしているとか思っている奴。

よく聞けよ。

俺の糞ブログにわざわざコメントなんかくれる人を見ろよ。
優しい言葉や元気いっぱいな言葉が多い。

その裏でどれだけ戦っているのかを想像できるかよ。

「もう抜け出したい」

この一言の裏にある感情がわかるかよ。

辛いんだよ。

とても言葉じゃ言えないほど辛いんだよ。

それもわかった上で「禁パチ」を選択したんだろう。


よっしゃ!

だったら団体戦だ!

あれ?

出だしと言ってる事真逆になっちゃったけどさ、
日々団体戦で踏ん張ってさ、
本当の決断はやっぱり自分次第だってことだよね。

ブログをはじめた当時、

俺の口から「団体戦」などという発想が生まれると微塵にも思わなかった。

「究極の自分との戦い」
この発想は今も変わっていないけど、団体の力だって捨てたもんじゃないんだなぁと。


ありがとう


今日も財布の金は減らない。

俺の禁パチ人生の展望
まずは「借金問題を解決する」こと。
そして「禁パチ中の暇を埋める」こと。
同時に「仕事の悩みを解決する」こと。
そして「将来に向けたお金の計画」を考える。

スタンフォード式 最高の睡眠
スタンフォード式 最高の睡眠 [単行本(ソフトカバー)]
西野精治
サンマーク出版



にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ギャンブル依存症へ